豊岡鞄の歴史と技

豊岡鞄の歴史

奈良時代
(710〜794)
豊岡鞄のルーツ
それは神話の時代に遡るのですが、新羅王子とされる天日槍命(アメノヒボコ)によって、柳(やなぎ)細工の技術が伝えられたとの伝承が、712年の「古事記」にあります。豊岡鞄のルーツは、その柳細工で作られたカゴだと言われています。また、菅原道真(843〜903)の「筑紫の配所への行列の絵巻」の中で、牛の背に行李が見られます。
 
奈良の正倉院に上納
奈良時代に豊岡でつくられた「柳筥(やなぎかご)」は正倉院に上納されています。1473年の、「応仁記」には、豊岡市の九日市(ココノカイチ)に「九日市場」が開かれ、柳こおりが商品として盛んに売買されていた記述があります。おそらくこの時期から、地場産業として家内手工業的な杞柳産業が発展したことが予想されます。
江戸時代
(1603〜1868)
江戸時代には
豊岡藩の独占取扱品として、柳こうりの生産が盛んになりました。1668年、京極伊勢守高盛が丹後国から豊岡に移封され、柳の栽培並びに製造販売に力を注ぎ、土地の産業として奨励したのが始まりです。豊岡から大阪を経由して全国にその販路が出来上がり、幕末には、大骨柳屋・飯骨柳屋・仲買・縁掛屋などの流通・販売機構も整い、全国的名声を築きました。

明治時代
(1868〜1912)
柳こうりから豊岡鞄へ
豊岡かばんとしては、1881年八木長衛門が第2回内国勧業博覧会に2尺3寸(約70cm)入子、3本革バンド締めの「行李鞄」を創作出品したことが始まりと伝えられています。この3本革バンド締めの柳行李は、外観はトランクと同じであったが、トランクと呼ばれずに柳行李と呼ばれていた。このことは、これが従来の杞柳製品の改良品で、柳行李で名高い豊岡で作られたことが、鞄と呼ばれず行李と呼ばれた原因と言われている。

昭和時代
(1926〜1989)
素材がファイバーへ
(紙を圧着したもの)
1936年に開催されたベルリンオリンピックの選手団のかばんとして、豊岡のファイバー鞄が採用されるなど、この頃には、「ファイバー鞄」が、豊岡かばんの主流を占めるようになりました。しかし、昭和12年に日中戦争、昭和16年に太平洋戦争と戦火が拡大するにつれて材料の確保が困難になり、材料の購入・販売など統制しなくてはならなくなった。

鞄産業が地場産業へ
昭和28年、従来のスーツケースの胴枠を改造し、外型崩れ防止にピアノ線を使用した鞄が生まれた。軽くて強靭であることなど、これまでの欠陥を補っていたので他商品を圧倒した。「岩戸景気」(1958〜1961年)を背景に、豊岡市に300を越える鞄関連企業が生まれました。全国生産の80%のシェアを占めるまでに発展した。こうして、カバン産業が豊岡市の地場産業となったのです。
但馬地域地場産業振興センター 2F 歴史資料室

職人技・熟練の技

 バッグ作りは、何といっても、人間の手によって作られます。
鞄の製造技術は、簡単には習得することは出来ません。
長い経験の積み重ねによって、人から人へ受け継がれ育ってきます。

イメージを形にする型紙づくりは、職人の技の見せ所のひとつです。

 鞄の縫製には、工業用ミシンを使用しています。いろいろなタイプのミシンを使って鞄を仕上げていきます。ミシンを使っての縫製技術は、革や帆布などの材料、バッグの構造やデザイン、機械の調整など、多くの知識とノウハウがないと上手く出来ません。

 デザインによっては、手縫いでバッグを仕上げていきます。一針一針心をこめて縫う姿は、リズミカルで素早く、まさにプロの職人技です。また、バッグのパーツ作りも手づくりです。ファッションやテイストにこだわると、どうしてもハンドメイドになってしまいます。


近代的な工場施設と品質管理システム

 近年では、職人の技と同じように近代的な生産技術が豊岡の鞄つくりを支えています。鞄のパターンをコンピュータで行い、裁断加工までするCAD・CAMシステムの採用、縫製を支援するコンピュータミシンなど、最新のシステムを導入しています。

 また、品質管理については大変重要視しており、企業のなかには国際的な品質管理システムのISO:9001を取得したり、独自の検品システムを構築したりしています。また、生産システムだけでなく、使用する革、帆布、金具やファスナーなどの原材料にも、人に安全で安心なものを使うようにしています。

 このように、日本製の鞄の最大生産地・豊岡は、長年の職人による熟練の技術、近代的な生産施設と品質管理システム、そして安心・安全な材料を使う日本人の気持ちが合わさって、鞄生産が地場産業として発展したのです。